起業して何か新たなことを始めたり、事業を進めたりするにあたっては、当然ながら様々な情報収集を実施されることと思います。
それはその準備期間のみならず、一旦走り始めてからも、毎日のように繰り返し行われることでしょう。
顧客のこと、市場のこと、競合のこと、同様ケースの成功例、失敗例…,etc,etc,etc…
インターネットの普及に伴う、膨大な数のWebサイト創出や、検索エンジンの進化などに伴い、Web上で検索すれば大抵の情報には辿り着ける時代になりました。
一つの分野に集中して効率的にWebで情報収集すれば、たった数時間である程度その道の専門家になることも可能だとまで仰る人もいます。
一口に情報社会あるいは情報化社会とは申しますが、これは本当に凄いことです。ほんの数十年前には考えられなかったことです。
Wikipediaの情報源に対する考え方
誰もが無料で利用可能で、インターネット百科事典と呼ばれている「Wikipedia」(ウィキペディア)。
気の向くままに目を通すだけの単なる暇潰しにも良し、対象ページを流し読みして大枠のイメージを把握するにも良し、じっくりと読み込んで本格的に調査するにも良し。
広範に渡ってあらゆる分野を網羅している上、広告の類いもないシンプルで使いやすいデザインで、非常に秀逸なサービスとして広く受け入れられています。
私もよく利用するのですが、このWikipedia、利用するだけではなく、誰もが自由に記事の編集に参加出来ることでも知られています。
それ故、記事の内容に対する根拠、その後ろ盾となる情報源が重要になってくるのですが、まさにWikipediaの中の「信頼できる情報源」というページに、以下の記述があります。
※引用(Wikipediaより) 一次資料 ある事柄の状態について直接の証拠となる記録物です。言いかえれば、書こうとしている対象の状況に非常に近い情報源です。(中略)一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです。ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。特に歴史についての主題を扱う場合がそうです。(後略) 二次資料 ひとつまたはそれ以上の一次資料または二次資料を要約したものです。学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます。 三次資料 通常は二次資料を要約したものです。例えば、百科事典は三次資料です。(中略)ウィキペディアは三次資料です。
要するに、Wikipediaは三次資料という位置付けであり、それ故、記事を書く際には、一つ手前の二次資料を参考にするべき、ということです。
そしてその二次資料とは、対象の直接の証拠・記録となる一次資料を、一つ以上参考にした上、要約・精査し、昇華させたものであるということになります。
私は、この部分が、一般的にも非常に参考になる内容だと考えています。
二次情報であるかどうかを意識する
要するに、私たちがあらゆる情報を収集し、参考にする際にも、常に対象情報が二次資料(二次情報)であるかどうかを意識し、それを利用するべきだということです。
少なくとも、一次資料(一次情報)と分かっているものをそのまま利用するよりは、大いに得策となることでしょう。
私はこれに、「0次情報」を加えて、常に「情報は2次か0次か」ということを意識しています(※以下、一次・二次の記述は、1次・2次といった数字を用いた記述にします)。
ちなみにここでいう0次情報というのは、私が勝手にそう呼んでいるだけであって、世間一般に通用する公式用語ではありません。
あるいは、同音語が一般的に意味するところと、別の意味かもしれませんので、悪しからずご了承ください。
それは何かと言えば、自らが現場に行って自らの力で直接収集した情報のことです。
要するに、誰かの情報(1次情報や2次情報)を参考にするでもなく、自分自身が直接現場に足を運んで行動することによって得た生の情報です。
私は、Wikipediaの考え方と同様に、まず情報は2次情報を利用するように心掛けています。
そして、それが叶わなかったり、納得がいかなかったり、あるいは自ら現場に触れる環境にあったりする際には、出来る限り0次情報として自分自身で直接生きた情報を得るようにしています。
すべてが0次情報であることが本来望ましいのかもしれませんが、時間や労力の関係でなかなかそうはいかないのが現実である上、これほどの情報社会を利用しない手はありませんから、これが一番の得策であると考えています。
みな違う世界を生きている
ただ、認識しなくてはならないのは、多かれ少なかれ例外なく、情報にはそれをアウトプットした人のバイアスがかかっているということです。
私が自ら現場から収集した0次情報は、私にとっての0次情報であって、他の人がそれを参照・取得した時点で1次情報となるのです。
その人自身の0次情報とは異なる可能性が大いにあるのです。
つまり、人はそれぞれ違う世界を生きているということです。
誰かが白に見えるものを、他のすべての人が白に見えるとは限らないということです。
それぞれの考え方や見方があっていいのです。
大事なのは、それを認め、常に意識するということなのです。
「あいつは他と違うからダメだ」とか、「自分は他と違うから優越している」とか、そういう考え方は、全く的を射ていないのです。
それらを分かった上で、世の中に溢れる情報を吟味し、かつ0次か2次かを意識しながら自分に有意義な情報を上手に利用すれば、アウトプットの質も格段に上がり、その結果また違った景色が見えてくるのではないでしょうか。
重大な意思決定は0次情報を基に
起業家や経営者として事業推進や組織のトップに君臨していれば、時にその事業や組織の存続自体に関わるような重要な判断や決断を下さなければならないことがあります。
要するに、極めて重大な意思決定となるものです。
そういう状況においても、2次情報はおろか、1次情報のみを参考にして、それを自らの拠り所や判断基準としているようなトップがいます。
率直に申し上げて、これは極めてリスクの高い、異常な行為であると言えます。
端的に言えば、意思決定という、トップがトップであるが故の決断、あるいは自らの存在価値に依拠するような判断において、自分以外の誰かによる見解や意見を主体としてそれを行ってはならないのです。
つまりは、トップ自らが直接目で見て、耳で聴いて、肌で感じた生の情報を基にしてこそ、すなわち0次情報を基に判断を下してこそ、初めてトップによる意思決定と言えるのです。
これは、意思決定にあたって、1次情報や2次情報を全く利用してはならない、という意味ではありません。
あくまで参考に、0次情報で得たものから判断した内容を補完するためのソースとすることは全く構わないでしょう。
しかしながらそれとて、補完以上の存在、すなわちそれによって最終的な意思決定内容が左右されるような、大きな意味を持たせてしまってはなりません。
言い換えれば、トップが下す意思決定において、1次情報や2次情報というものは、0次情報によって導出された何らかの答えについてそれを確認するためだけの存在に留めるべきであって、それが答え(意思決定内容)に大きな影響を及ぼすくらいなら、初めから参考にしないほうがいいのです。
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自らが勝負している舞台、すなわち当該マーケットの現状をその目で全く見ることなく、専門家あるいは幹部の見解を鵜呑みにして、事業の方向性を決定する起業家がいます。
大きな投資を、詳細な戦略や戦術を理解することなく、担当者の口車に乗せられるがままに、実施する経営者がいます。
そこにあるのは、トップの判断でも、意思決定でも何でもないばかりか、起業家や経営者としての覚悟や存在価値まで疑わざるを得ない、由々しき事態です。
そして、こういうトップほど、諸々の具合が悪くなった際に、件の専門家や幹部、担当者などに責任を転嫁してしまうものです。
そんな状況でトップとして誰よりも高い報酬を得ているとしたら、それはただの横暴以外の何物でもありません。
当サイトでも何度か言及している通り、会社などの組織は船に例えられ、経営などそれを運営することは航海に例えられることがよくあります。
そして、その船の舵取りを行うのが、他でもない、起業家や経営者といったトップであるという訳です。
自分がトップである以上、船の命運を握る舵取りを、決して他の者に任せてしまってはならないのです。
逆に言えば、それが出来ないのならば、さっさとトップの座など降りてしかるべきなのです。