宝くじで高額当選した人のほとんどが、その後、不幸に陥っているという話をご存知でしょうか。
その割合、8割とも9割とも言われています。
とはいえ、人の幸せとか不幸とかいった定義自体が曖昧な上、憶測も含めた様々な情報が飛び交っており、その多くは、真偽のほどが定かではありません。
その辺りは、何だか起業の成功率の話と似ていなくもないですね(笑)。
※参考 →「起業の成功率に惑わされるな」
ただ、この宝くじの話には、割と具体的な事例が数多く存在しています。
例えば・・・。
親戚や知人と名乗る人たちが次々と寄って来るようになって、人間不信に陥ってしまったというもの。
当選した途端に、嫌がらせの電話が頻繁にかかってくるようになり、ノイローゼになってしまったというもの。
宝くじを買いに行く途中で関わった人たちから、「自分たちにも当選金を受け取る権利がある」として、訴えられてしまったというもの。
気が大きくなって散財することにより、ついには破産してしまったというもの。
・・・などなど、枚挙に暇がありません。
これらの話すべてが真実かどうかは分かりませんが、海外では、高額当選者が殺されてしまう事件などが、実際に起こっているようです。
だからやっぱり、「8割(あるいは9割)が不幸になる」という話には十分な信憑性がある、ということを言いたい訳ではありませんが、大金によって、当人あるいは当人を取り巻く人間が、ある意味で正気を失い、大いに振り回されてしまうということは、確かに十分あり得る話ではないかと思います。
悪銭身につかず
もちろん、宝くじで高額当選することが、決して良くないことであるなどと言いたい訳ではありません。
ただ、日本にも「悪銭身につかず」といった言葉があるように、汗水垂らして働くことによって手に入れたのではないお金というものは、とかくよろしくないものとして見受けられてしまう傾向があります。
宝くじの当選金を「悪銭」と呼ぶことには、ちょっと違和感がありますが、この言葉の本来の意味合いからすると、実はそれも含まれてしまうのです。
結局、お金というものは、それを手に入れる過程が重要であるということではないでしょうか。
お金は手に入れる過程が重要
コツコツと地道な努力によって手に入れたお金というものは、その努力がしっかりとした裏付けとして存在するため、その価値を非常によく理解することが出来ますし、それ故に大変ありがたく思うことも出来ます。
必然的に、その使い道も、しっかりと締まったものになるはずです。
それに対して、宝くじなどで労せず手に入ったお金というものは、余程しっかり「心の芯」を保たないと、自分自身を破滅させてしまう恐れがあります。
倫理観、道徳観、価値観など、お金にまつわるあらゆる観念を、しっかりと意識して保たなければ、事態は予期せぬ悪い方向へ進みかねないのです。
これらは、本人だけでなく、実は周りの人にとっても同じことで、他人が苦労して手に入れたお金というのは、十分に納得して、受け入れることが出来るものです。
ところが一方で、他人が労せず大金を手にしたことに対するひねくれた嫉妬や羨望は、「邪魔してやろう」とか、「おれにもよこせ」などといった様々な邪心を呼び起こし、人を大いにおかしくしてしまうのです。
お金は人を狂わせる
これは、いわゆる「事業が当たった」ことによる、起業家の一攫千金だって同じことです。
特に、起業のきっかけが、「一攫千金を夢見て」などという方であれば、要注意かもしれません。
もちろん、それ自体を否定するものではありませんし、一攫千金による成功を、悪いことだとは思いません。
ただ、一攫千金を手に入れた後、両足をしっかりと地につけ、揺るぎのない信念をもって踏ん張らないと、起業家としてダメになるだけではなく、人間として破滅への道をひた走ることにもなりかねません。
冒頭に挙げた、宝くじに関する具体的な事例を見ても分かる通り、お金は人をはなはだ狂わせてしまうものだからです。
努力の対価ではないお金
実は私も、これまで何人かそういう人を見てきています。
より現実的なところで言えば、これは一攫千金とは言えませんが、組織のトップに取り入ることで、大した努力もせずに高いお金(報酬)を毎月手に入れることに成功した役員が、時が経つにつれ周りへの横暴な振る舞いが加速し、どんどん横柄な人柄に転じていく様も目の当たりにしました。
高い報酬を、自らの実力であると勘違いしてしまったのか、あるいは逆に、それを手にするだけの実力が自分にないことを隠したいが故のことなのか…。
私は恐らく、後者ではないかと睨んでいます。
過去にも以下のページで触れたのですが、実は、自分に自信がない人間ほど、それを隠したい心理が働くが故に横柄になったり、傲り高ぶったりするものであるというのが、私の考えだからです。
※参考 →「自分に自信を持つ」
今、自分が手にしている報酬は、決して自らが汗水垂らした努力への対価ではないということを、本人が一番よく分かっていたのではないでしょうか。